柔術は生きていた!!!!ブラジルの地で再会した柔術と柔道。
その勝負の行方は!!!これは長きに渡るブラジリアン柔術と日本格闘技界の戦いの始まりである。
※この記事は事実の一部を脚色してありますのでご留意ください。
・時代 1951年
・対戦 エリオ・グレイシーVS木村政彦
・ルール 柔道VS柔術
・勝敗 木村政彦の勝利
木村政彦という男がいた。
彼は現役無敗の柔道家であり、『木村の前に木村なく、木村の後に木村なし』とまで言われる大格闘家で、プロ柔道家として生活していた。(詳しくは以下リンクにて)
しかし、戦後の日本において、柔道家として食べていくのは苦しく、木村はプロレスラーとなる。
彼にどんな葛藤があったかは最早分からない。しかし、柔道家のプライド、そしてプロレスラーとしての生きていくことへの歯がゆさを感じていたことは容易に想像できる。
そんな折、木村はブラジルへプロレス興行に赴く、プロレスをしながらも現地で柔道指南を行っていた矢先、木村の耳に驚くべき情報が飛び込む。
木村『加藤がやられただと・・・!!!』
プロレス巡業に同行していた仲間の一人、加藤幸夫が現地の格闘技の雄『エリオグレイシー』に敗北したのである。
聞けば、このグレイシー、日系柔道家たちをことごとく倒し続けており、現地では英雄的な人気まであると聞く。
木村『黙っちゃいられん・・・』
木村はエリオグレイシーと対決する運びになり、二人はブラジルのマラカナン・スタジアムで雌雄を決することになる。
エリオは木村の実力をしっており、棺桶を用意していたと言われている。まさに必死の決意である。
試合が始まり、木村は驚愕することになる。
木村『エリオの使う技は柔術じゃないか・・・!!!!』
そう、エリオは柔術使いだったのである。
日本古来の武術が一体なぜ地球の裏側のブラジルで受け継がれていたのか・・・
木村は2ラウンドにて、大外刈りからの腕がらみで文字通りエリオの腕を折って勝利した。エリオは腕が折られながらも決してギブアップはしなかった。
腕を抱え会場を去るエリオに木村は問いかける。
木村『おい、その技・・・誰から教わった?』
エリオ『コンデコマだ・・・』
コンデコマ、それは前田光世のブラジル帰化後の名前である。
柔道の開祖嘉納治五郎の高弟達で構成された講道館四天王の一人、横山作次郎の弟子、前田光世は世界中で武者修行を行い、最後はブラジルの地で柔術を現地で指導していたのである。
そして、この約50年後、エリオグレイシーの息子、ヒクソン、ホイスは世界中にグレイシー旋風を巻き起こし、更に総合格闘家として、当時日本最強とも呼び声高かった高田延彦と死闘を繰り広げることになる。それ以降も日本格闘技界とブラジリアン柔術との死闘はジャパンMMAのひとつの大きなテーマとなっていく。
この試合はまさに半世紀続くブラジリアン柔術との死闘の幕開けであったのだ!!!