・時代 1986年
・対戦 前田日明VSドン・中矢・ニールセン
・ルール 異種格闘技戦
・勝敗 前田日明の勝利
新時代の幕開け。
新・格闘王前田日明の激闘!!!
1976年のモハメド・アリ戦以降、異種格闘技戦を繰り広げ勝利を繰り返していた猪木はいつしか『格闘王』と呼ばれるようになる。
アリ戦から数年、猪木が立ち上げた新日本プロレスにも新しい風が吹く。
前田日明の台頭である。
前田は1959年に大阪に生まれる。手の付けられないやんちゃ坊主に成長した彼はアリ戦の翌1977年に新日本の門を叩き入団する。
身長192センチ、さらに甘いマスクの前田は瞬く間に若手人気レスラーになった。
1984年、前田のレスラー人生に大きすぎる転機が訪れる。
UWFへの移籍である。
当時、事業失敗によりアントニオ猪木は新日本社内で反猪木勢力によりクーデターがおこるのではないか?と言われていた。その為、猪木の新たな受け皿として旗揚げされたのが、このUWFであった。
猪木は前田に『俺もあとで行くから』と言い、移籍するように促す。
当時のことを振り返り前田は『金銭的に困ってたし、移籍金がもらえるってんなら…』『(猪木が)苦労している姿を見ていたし、まあ…』とかなり消極的な移籍であった。
しかし、ここで問題が発生する。
猪木がUWFに来ないのである。
実は社内でのクーデター騒動は収まり、猪木は結果的に新日本から出ていく必要がなくなったのである。つまり、UWFは梯子を下ろされた状態となったのだった。
猪木は前田に『まあまあ新日に戻って来いよ』と言うが、なんと前田はそれを拒否。
当時のUWFスタッフは全員20代。エースである前田が古巣新日本に戻るということは若い彼らを路頭に迷わせることになる。兄貴肌の前田は自分一人が新日に帰ることをよしとはしなかった。
UWFは新格闘技を模索していた初代タイガーマスク佐山聡が合流したことにより、従来の派手で面白いプロレスではなく、簡単に相手の技を受けず、関節技や蹴りを中心とした格闘技色の強いプロレスを標榜することになり、これに一部のプロレスファンは熱狂。UWFは一大ムーブメントを巻き起こすことになる。
しかし、前田と佐山が方向性の違いから決別。
※佐山はその後総合格闘技団体『修斗』を立ち上げる。
また、熱狂的なファンはいるものの、UWFにはテレビ放映がなく、カルト的人気に留まるのみであった。
その為、資金繰りに苦しむことになり、1985年にUWFは新日本プロレスと業務提携という形をとり、前田は新日本に復帰することになった。
しかし、前田としては面白くない。
自分が標榜する格闘技プロレスではなく、新日本プロレスのショー要素の強いプロレスをすることをよしとしなかった前田は、新日本プロレスのレスラーとの試合中に蹴りを多用、ロープワークの拒否など、無理やり格闘技路線を新日にもたらし、前田の試合は独特な緊張感が生まれるようになっていった。
そんな前田のことを新日本首脳陣が面白く思う訳もなく、前田潰しが始まる(諸説あり、前田潰しなどなかったという人もいれば、明らかにあったという人もいる。真相は闇の中である)
1986年には超大型レスラーアンドレザジャイアントと試合が行われ、アンドレが前田の攻撃を受けずにショーではなく、ガチの攻撃をしかける。(仕掛けたかのように見えた)。それに前田は蹴りで応戦。
最終的にアンドレが戦意喪失して無効試合となった。
この不穏な試合は当時テレビ放映が禁止になるほどのものであった。
そして、決定的だったのが、1986年10月に行われた試合であった。
前田の対戦相手はドン・中矢・ニールセン、ガチガチのキックボクサーである。
この試合は前田を大観衆の前で叩きのめす為にガチ強キックボクサーを海外から連れてきて組まれた試合ともいわれており、前田は試合直前まで対戦相手を教えてもらえていなかったという説すらある。
もちろん真偽のほどは定かではない…
この試合、1ラウンドからニールセンの打撃が炸裂しまくる。
キック、そして左ストレートをもろに食らった前田は意識を失うほどのダメージを負う。
なんとか持ち直した前田はローキックと関節技主体で試合を組み立てていく…
試合はニールセンの打撃、前田の蹴りの応酬、そして関節技をロープブレイクで凌ぐニールセンと、それをさせまいと極めにかかる前田の気迫に、観客は沸きに沸いた。
そして、運命の5ラウンド。前田が片海老固めでニールセンを絞り上げ、前田が勝利をもぎ取った。
この試合があまりにも盛り上がった為に、メインイベントの猪木の試合が霞むほどであった。
この試合で異種格闘技戦(総合格闘技)の人気に火が付き、その後また新日本から独立したUWFはその人気を確かなものにしていく。
この試合は日本MMA(総合格闘技)の隆盛の転換期であり、歴史的一戦となった。
そして前田はこの試合を機に、猪木に次ぐ『新・格闘王』と呼ばれるようになったのであった…