嘉納治五郎の講道館柔道からは多くの猛者たちが世に羽ばたいていった。
姿三四郎のモチーフになった、小柄ながらも講道館四天王の一人、西郷四郎。
最強を追い求め世界へと羽ばたいた、前田光世。
そして、特筆すべきは木村政彦である。
彼は1937年から日本選手権3連覇。
1940年の展覧武道大会では5連勝。
以降も勝利の山を築き続けて『不敗常勝の男』として日本中に名を轟かせる。
その柔道家のキャリアのうち15年間不敗だったと言う。
そして、1950年にプロ柔道家に転向するも、金銭的な理由によりプロレスラーへと転向する。
1951年にはブラジルの地で後に最強の名を欲しいがままにするグレイシー一族と死闘を繰り広げ、エリオグレイシーを下す圧倒的な強さを見せつけた。
そんな木村だったが、気に食わなかったのが、当時の国民的英雄として大人気を博していた力道山である。
1954年に本格的にプロレスラーとしてデビューした木村だったが、試合ではいつも力道山の引き立て役にされてしまう彼は、『真剣勝負なら負けない』と挑戦し、2人は戦うことになった。
それは昭和の巌流島といわれ、英雄と最強の試合に国民はわきにわいたが、その結果は凄惨なものだった。
試合の途中、力道山は木村を拳で殴打し続け、(プロレスでパンチは反則)木村はマットに沈んだのである。
この試合に関しては未だに諸説あるが、明らかであるのは、観衆の前で木村は敗北し、力道山が勝ったという事実である。