※この記事はnoteを転載したものです。
にわかの俺が新日本プロレスの歴史を調べる〜70年代編〜前篇|中西
え!?プロレスってこんなに面白いのか!!!
そう思ったのは、2023年1.21 新日本プロレスvsNOAH! 『WRESTLE KINGDOM 17 in 横浜アリーナ』のセミファイナル鷹木信吾VS中嶋勝彦の一戦であった。
当時、格闘技オタクの俺は2022年12.31に行われた総合格闘技イベント『 RIZIN.40 RIZIN vs. BELLATOR 全面対抗戦 』の余韻が抜け切らずにいた。
北米メジャー団体であるBELLATORは言ってしまえば格闘技界のメジャーリーグ。そんなメジャーリーガー達と日本格闘技界のオールスター軍団が大激突したこの興行はまさに『格闘技オタク達の夢』の具現化そのものであった。
大晦日の対抗戦を楽しみに生きてきた俺は新年早々に生きる意味を失い途方にくれていたのだが、そんな折に『新日本VSNOAH』の対抗戦をABEMAのCMで知った。
へえー…まぁRIZINとかUFCとかBELLATORのビッグマッチまでの繋ぎとして見てみるか…ちょうど『対抗戦ロス』だしなぁ…
と軽い気持ちで見てみることにした。
正直見るまでは、プロレスのことをちょっと舐めていた。どうせ八百長だろ?筋書き通りのショーの何が面白いんだよ…なんて気持ちがまったくなかった訳ではない。
ところが、試合を見るとそんな印象がガラリとと変わった。特に前述の鷹木VS中嶋はやばかった!!!
鷹木は新日本のチャンピオンにもなっている剛の男。中嶋はNOAHの力の象徴とも言えるタフな選手。
試合中盤、中嶋勝彦がバンバン蹴って蹴って更に鷹木を頭からマットに叩きつける!!!
肉を蹴り上げる音、マットに叩きつける音、それは総合格闘技では滅多に聞けない爆音だった。
中嶋の何度目かの投げで、鷹木がマットに深々と突き刺さる。バゴーン!!!と、とんでもない音が響き渡る。(後にこれが中嶋勝彦の必殺技『ヴァーディカルスパイク』と知る)
力なくマットに倒れる鷹木。鷹木は動かない!!!
え、事故!?死んだ!?
俺は目が点になった。生まれて初めて人が全力で叩きつけられる音を聞いてしまったのだから仕方がない。
しかし、鷹木は立ち上がり、必死の反撃を見せる。
手に自然と汗が滲み、気がつけばパソコンの液晶の前で「鷹木ぃ…」と歯を食いしばり応援していた。
そして最後は鷹木が中嶋の足を持って、グググっと思いっきり持ち上げてそのまま叩き落とした!!!(これが鷹木の必殺技『ラスト・オブ・ザ・ドラゴン』と後に知る)
いけ!!今だ!!!鷹木ッッ!!!
鷹木はそのまま中嶋に覆い被さる。
1・2…
レフェリーのカウントに合わせて、俺も思わず叫ぶ。
3!!!!
会場が大爆発する…
俺は真冬の夜、7畳半のボロアパートで拳を天高く突き上げていた。
そこには、八百長とか筋書きとか言う下らない言葉を超越した男と男の真剣勝負があった。
その瞬間、俺のプオタ人生が始まった。
※
その夏、両国にG-1を見に行き、2024年の新年には東京ドームまで『初詣』に行くようになった。
新日本プロレスの虜になっていたのだ。
棚橋のハイフライフローに思わず叫び、内藤のデスティーノに両手を挙げて歓喜し、オカダのレインメーカーに心を熱くした。
辻、海野、成田、上村の4人は俺と同年代。彼らがベテラン勢を相手にする時はどうしても肩入れしてしまう。
「負けるな!!!辻!!!お前が負けたら、新日本の未来はどうなるんだよ!!!」
と2024年のNEW JAPAN CUP決勝戦、ベテラン後藤VS辻の試合中、思わず叫んでしまったのは記憶に新しい。
さて、未来に目を向けるのは素晴らしいことだがここまでハマると気になるのは過去である。
新日本は50年以上の歴史があり、50年分の男達の汗と涙と血がマットに染み込んでいるわけである。一応ファンとして昔のことも知っておくか…いやぁ…でも昔の試合とかなぁ…どうせ地味だし面白くねえだろうなぁ…でも、いい機会だからちょっと調べるか…
と半ば歴史の勉強をするような、気だるさすら覚えつつ新日本プロレスの歴史をネットや書籍、もちろん新日本プロレスワールドを漁って調べたのだが… (しかし、なんで書籍や話す人によって内容が変わってくるのだろうか?)
めちゃくちゃ面白い!!!
そして、『これは…俺がまとめねばならない!!!!』と言う義務感にかられた。
と言うのも、プロレスってかなり敷居が高いように思うのだ。
50年の歴史が新日本にはある。
これは例えるならば漫画で言うと50巻刊行されている漫画のようなもの。長期連載の漫画の最新刊をパッと手に取ろうと言う気持ちになるだろうか?
最新刊を手に取ってもらう為にはせめて簡単なあらすじを用意すべきである。
俺がプロレスにハマった時、一番欲しかったのは『これだけ読んだらプロレスの歴史がなんとなく分かる』と言う資料だった。
にわかなりに知識をつけた今、そんな資料を俺なりに作ってみたい欲にかられたのである。
査読は充分にするのだが、歴の浅さ故や素人故に事実とは多少異なる記載があるかもしれない。
そんな箇所が有れば是非とも先輩プオタの諸兄の皆様からご指摘頂ければありがたいし、これを読まれるプロレスの知識がない方々はあくまでも『話半分』で聞いていただけるととても助かる。
更に言うと、この記事では登場人物は出来る限りレスラーに絞った。
新間寿など、新日本を語る上で欠かせない人物も多々いるが、あまりにも登場人物がおおくなるとわかりにくくなるので、今回は割愛させてもらう。
さて、前書きの最後に一言。
この記事がプロレス好きを増やす一助になればそれよりも嬉しいことはない。是非とも楽しく読んで欲しい。
まず今回は70年代の新日本プロレスの歴史を紐解いていこう。
1943年、猪木生まれる
1943年、神奈川県で新日本プロレスの創始者アントニオ猪木こと猪木完至は生を受ける。
11人兄弟の9番目の6男だった猪木。
血筋であろうか、石炭問屋を営んでいた猪木の父親は猪木が5歳の時横浜市議会選挙に立候補。しかし、選挙中に心筋梗塞により急死。
更に世界のエネルギーが石炭から石油に移行していく煽りを受けて会社は倒産した。
厳しい生活が続く中、猪木が12歳の頃に猪木の兄である寿一さんが『ブラジルへの出稼ぎに関するパンフレット』を手に家に帰ってくる。
戦後間もない日本。生活に困窮する人は少なくなかった。そんな人々が夢見たのが『出稼ぎ』であった。
貧しい日本を出て外国で働き、金を貯めて故郷に錦を飾るのが、市民の夢のひとつであったのだが、移民政策の実態は国内の急激な人口増加に対する、言葉を選ばずに言うなら『口減し』であった。
出稼ぎのほとんどが、劣悪な環境で働かされ、貯金することもままならず、『出稼ぎ』のはずが『移住』となるケースが散見されたと言う。
(ここら辺、有識者の方々に補足なりしてもらえるとありがたいっす)
猪木一家も困窮から逃れるため、ブラジルへ渡ることを決めた。
ここで注目すべき点は、ブラジル渡航を猪木の祖父 寿郎さんの存在である。当時77歳と高齢。人生も終盤に差し掛かっている時期に、新天地を求めてブラジルへ渡ると決意するのは並大抵のことではない。
寿郎さんは豪快な性格で猪木のことをとても可愛がっており、猪木もおじいちゃんっ子だった。
寿郎さんの存在が後の猪木の性格に大きく影響を与えたのではないかと私は想像している。
さてブラジルへと渡った猪木一家だが、ご多分に漏れず苦しい生活を余儀なくされる。
朝から晩までコーヒーの実を取る生活。手袋をしていてもすぐに手袋は裂け、手の皮がめくれて血だらけになった。真夏には40度を超える日も珍しくないブラジルでの労働。仕事を終え、着ていたシャツを脱ぐと汗の塩気が固まりシャツが立ったと言う。
苦しい日々を糧に猪木は大きくなった。
メキメキと身体は大きくなり力も強く、猪木が仕事で出入りする青果市場では『大柄で力持ちの青年』として有名だった。彼の腕力はプライベートでも遺憾無く発揮された。当時日系ブラジル人の間で人気のあった陸上競技を始めてみれば、砲丸投げで好成績を叩き出し、猪木の名は青果市場のみならず、日系ブラジル人コミュニティにおいて知れ渡るようになっていった。
そんな折、猪木に転機が訪れる。
ブラジル遠征に来ていた力道山が猪木の噂を聞きつけ、わざわざ会いに来たのである。
無論、猪木からしたら少年時代に見ていたテレビのスーパースターが突然目の前に現れたわけで、ただただ驚くしかなかった。
ブラジルはサンパウロの青果市場の中、力道山は猪木に「脱げ」と言う。
服を脱いで上半身裸になる猪木。
そして猪木の全身をくまなく見終わった後、力道山はただ一言
「日本に行くぞ」そう言った。
それで全て決まった。
この日から猪木はプロレスラーとしての道を歩み始める。1960年猪木17歳の出来事だった。
1960年、ジャイアント馬場との出会い
1960年、ブラジルに家族を残し、単身帰国した猪木は力道山に連れられ人形町にいた。
日本プロレスの道場に行くためである。
日本プロレス、力道山が設立したプロレス団体である。
日本プロレスを日本初のプロレス団体と思っている方も多いが、実際には異なる。日本プロレス以外にも 木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、木村、山口の両選手を相次いで撃破した力道山が人気を独占。競合の団体は相次いで消滅し、その結果日本プロレスが業界を独占していたのである。そんな日本プロレスの道場があったのが人形町なのだ。
力道山と猪木が道場に着き、早速トレーニングを開始する猪木。
すると、ベンチプレスをしている青年に目が止まった。
デカいな…
大柄…と言う言葉では言い表せないほど長身の青年だった。バーベルを置いて立ち上がると、身長190センチの猪木が見上げるほど大きい。
彼の名前は馬場正平。ジャイアント馬場その人である。
1938年生まれで猪木よりも5歳年上になる。
209センチと言う規格外の長身と類稀な運動神経を武器にプロ野球選手として活躍していたが、怪我を理由にプロ野球を引退。スポーツを続けたい一心で、プロレスラーに転身すべく面識のあった力道山に入団を直訴したのであった。
周知の事実だが、馬場は後に全日本プロレスを設立。猪木の新日本プロレスと人気を二分し、血を血で洗う興行戦争を繰り広げることになる。まさに猪木にとって終生のライバル。
猪木は生涯に渡って馬場との直接対決を熱望したが、結局それは叶えられることはなかった。
馬場がベンチプレスを終えても、彼から猪木が目を離せないでいる時、猪木の横から柔和そうな男が現れ、猪木に話しかけてきた。
「わたし韓国人。あなたブラジル人?仲良くしようね!」
その男の名前は大木金太郎。力道山を頼って密入国してきた韓国人。本名はキム・イルと言った。後に馬場、猪木、大木の3人は「若手三羽烏」と呼ばれることとなる。
この若手三羽烏はその後、運命に翻弄され数奇な運命をたどることになる。
※
入団してすぐに過酷な日々が始まった。厳しいトレーニングに加え、力道山の住み込みの付き人に抜擢された猪木は朝から晩まで雑用をこなした。粗野な性格の力道山による鉄拳制裁は日常茶飯事で、猪木は理不尽な暴力に耐えつつ厳しい修行の日々を耐えていた。
一方、馬場はと言うと知名度もあり将来を有望視されていた為、入団当初から特別扱い、練習生であるにも関わらず破格の給料を貰いつつ、住み込みではなく自宅から通って道場で汗を流していた。
この力道山、猪木、馬場、三者の関係は深掘りすればするほど面白い。
まず、猪木と馬場の関係だが前述した通りのライバル関係だったが生涯に渡り関係は概ね良好であった。
同日入門ではあるが、馬場の方が5歳も年上と言うことで猪木のことを弟のように可愛がっていたし、猪木も馬場のことを兄のように思っていた節がある。
例えば、若手の頃金がなく背広が買えない猪木に「俺のをやるよ」と自身の背広を馬場は渡したのだが、「こんなに大きいの貰っても着れないよ」と笑いあったと言う。
更にこんな話もある。練習終わり道場の近くのラーメン屋に行った馬場と猪木。一杯食べてもまだ食べ足りない2人はもう一杯追加で注文。その一杯のラーメンを2人で分け合って食べたそうだ。
70年代、80年代には血を血で洗うような興行戦争を繰り広げる2人。馬場は猪木に対して『はらわたが煮えくり返る』思いだったそうだが、根底には『同じ釜の飯を食った仲間』と言う意識があり、心の底から憎んでいたわけではないようである。
猪木にしても、リング内外で馬場を挑発し続けたが、直接顔を合わせると、『走って挨拶に来る』ほど慕っていたという。
あまりにも特殊すぎる関係故に、馬場と猪木の関係を言い表す言葉がない。『兄弟弟子』とも違うし、『ライバル』も近いが微妙にしっくりこない。やはり猪木と馬場の関係は『猪木と馬場』としか言いようがないのである。
力道山の2人の弟子への対応も興味深い。
一見すると、馬場の方を優遇していたように見えるが、その実猪木の方が可愛かったのではないか?と思える節がある。
例えば、力道山は猪木のことをボッコボコにするのだが、本当に猪木がプロレスを辞めてしまうほど思い詰める様子が見えるとピタリと『指導』を止めて態度を軟化させて上手いことガス抜きをしていたようだし、猪木に肩揉みをさせる時は決まって経済新聞などを猪木の目に入る形で読んでいたと言う。
実は力道山、そのルーツは朝鮮にある。
彼は日本統治下の北朝鮮で生まれており、韓国人でありながら日本国籍と言う複雑な出自を持つ。
そんな彼が弟子であり、ブラジル移民だった猪木に辛く当たるのは愛憎入り乱れる感情があったからなのではないか?と考察する。
この件に関しても本人でないと実際のところの気持ちはわからない。しかし、力道山が苛烈な性格であったことだけは間違いないようだ。
その性格が災いして63年、些細なことが原因で暴力団員と喧嘩。喧嘩の末、腹部を刺されて力道山死亡。力道山、当時39歳。あまりにも急すぎる死であった。
力道山の死と共に猪木の辛く苦しい付き人生活は3年半で終止符が打たれた。
猪木は翌64年からアメリカ遠征へ。
力道山亡き日本プロレスで馬場は頭角を表し、次世代のスターへと成長していく。
1966年、猪木前夜
力道山の死から3年が経った。
場所はハワイのワイキキビーチ。海を眺めているのは彫像のような均整のとれた肉体の持ち主。アントニオ猪木その人であった。
美しい常夏の楽園ハワイとは対照的に猪木の表情は暗かった。
64年から続くアメリカ中を周るサーキット興行で猪木は確かな手応えを感じていた。アメリカのベルトも巻き、自分がレスラーとして音を立てて成長していくのを感じていたことだろう。
アメリカ修行を終え、日本プロレス合同練習に参加するためハワイに向かった猪木を待っていたのは『冷遇』であった。
今後の給料、参戦予定のシリーズに関しては話をはぐらかされ続け、ハワイでの宿泊ホテルも馬場達とは違う。更にいざホテルに着いたら予約されていなかったと言う始末。東京スポーツの記者が偶然ツインの部屋を取っていたのでそこに泊まらせてもらうことになる。
猪木の中で日本プロレスへの不信感が募るハワイで1人の男が猪木に近づいてきた。
それが豊登である。
彼は猪木や馬場の先輩にあたるレスラー。力道山亡き後、日本プロレスの社長に就任したが、66年の年始に体調不良を原因に社長職を辞任していた。
この豊登、豪快な人で博打が大好き。若い頃は猪木を連れて賭場に出かけることもあった。猪木からしたら、辛い若手時代に親身になってくれた兄貴分なのである。しかし、金に随分とルーズな部分もあり、社長辞任の真相は豊登の『不透明な金の流れ』が原因の一旦とも言われている。
そんな豊登は起死回生の為、新団体設立を目論んでおり、猪木に接触してきたのである。
実は先ほどの猪木に対する日本プロレスの冷遇も、豊登と親密だった猪木が『彼と繋がっているのでは?』と言う疑惑をかけられていたことに端を発するのである。
豊登は猪木を口説く、
「このままでは一生馬場に勝てんぞ」
当時の馬場は日本プロレスの誰もが認める大エースにまで成長していたのだ。
猪木はたった2〜3時間の会談で日本プロレス離脱を決意する。思いっきりの良さは祖父や父譲りなのであった。66年3月の出来事である。
そうして豊登と猪木が作り上げた新団体が『東京プロレス』だったのだが、そこから先のスピード感たるや以上である。
日本プロレス退団と共にアメリカに飛び、人気選手獲得に成功する猪木。そして旗揚げ戦は10月に行われ、超満員の大盛況であった。
しかし、当時のプロレスにおける有力スポンサーであったテレビ局は一社としてつかず、更に豊登が東京プロレスの資金をほとんどギャンブルに使い込んでいたことが発覚。豊登との関係は完全に決裂。66年年末には東京プロレス崩壊。翌年の67年には日本プロレスに出戻りしている。
66年は猪木の猪木らしさが凝縮された一年であった。
・日本プロレスと決裂
・東京プロレスを作る
・豊登と決裂
・東京プロレスが崩壊
と言う常人ならば人生の分岐点とも言える重大事件が僅か1年間の間にここまで詰め込まれているのである。猪木は当時23歳。若い頃からスケール感が違う男だった。
こう書くと、悪いことばかりの一年であったようにも見えるがそうでもない。実はこの年、猪木を語る上で外せない女性『倍賞美津子』と出会うのであった。
いまでは伝説に両足を突っ込んでいる大女優倍賞美津子はこの時デビューしたての20歳。
ある日のこと、酒が入った倍賞は銀座の路上に白い高級車を見かける。元々勝気な性格だった倍賞は「なにさ!これみよがしにこんな車に乗って!」と車を蹴り上げる。とんでもない女である。
すると、道の向こうから車の持ち主らしい大男が歩み寄ってきた。
彼は怒るでもなく『どこ行くの?』とナンパしたのである。
その男こそ猪木の兄貴分にしてこの年に袂をわかつ豊登であった。豊登は美人で気の強い倍賞を気に入り親交が生まれる。
倍賞の舞台を見終わった後、何人かで連れ立って中華料理屋に行った。その中にいたのが猪木である。
倍賞美津子の猪木に対する第一印象は『よく食べる人』。
そんな猪木に負けじと倍賞は張り合うようにたくさん食べたと言う。
猪木はほとんど一目惚れのような具合で、この会食の数ヶ月後には「結婚してくれ」と倍賞に迫っている。
しかし、当時、アメリカ遠征中に出会ったダイアナ夫人と結婚しており、子供も1人もうけていた。そんな猪木からの求婚を倍賞が受け入れるはずもなく、この時は猪木の失恋で幕を閉じている。
その3年後、69年に2人は些細なことがきっかけで再会するのだが、この時の猪木の猛アタックぶりはすごかった。既に前妻との離婚は成立しており、レスラーとしても脂が載っていた猪木。
まずは倍賞の母親がプロレスファンであることを知ると、母親を仲間につけ、さらには交際を反対していた倍賞の父親が酒好きと知れば、「珍しいお酒を手に入れましてね…」と酒を手土産に籠絡していく。
そしてついに71年に倍賞と結婚。1億円披露宴は世間の注目を集めた。
その後、88年に2人は離婚するが親交は猪木が亡くなるまで続いた。まさに猪木を生涯に渡って支えたのは誰でもない倍賞美津子その人である。まだまだ2人のエピソードはあるが、それは後に取っておいて話を本題に戻そう。
1967年、BI砲が大人気に
67〜71はもしかすると猪木の人生の中で最も穏やかだった日々ではなかろうか?
結局猪木は日本プロレスに出戻りとなる。
出戻ってからしばらくし、馬場とのタッグ『BI(馬場、猪木)砲』で大人気。
この頃も馬場と猪木の関係は良好だったようである。様々な関係者が口を揃えて『仲が良かった』『猪木が馬場を立てていた』と言う。
後年、馬場が猪木の度重なる挑発に対しても本気で憎悪を抱かなかったのは、この頃の青春の思い出が影響しているのはまず間違いなさそうである。
1968年、師匠カールゴッチとの出会い
戦争。それはこの世の地獄。
いつの世も、割を食うのは戦争を始めた為政者ではなく、常に未来ある若者である。
しかし、地獄の業火程度では若者の情熱の炎は消す事が出来ないのも世の常なのだ。第二次世界大戦終了後、ヨーロッパに設営された捕虜収容施設。
沢山の捕虜の中に大柄の青年がいる。ボディビルのようなゴツゴツした彫刻のような肉体ではなく、それはまるで大きな岩を生ゴムで巻いたような弾力がある肉体だった。捕虜収容施設で強制労働を強いられる中でも、彼の青い瞳は燃えていた。
その目は無機質な収容所の壁に、大きな円を映し出す。円の直径は9m。レスリングの円だ。青年は頭の中で2人の選手を思い描く、1人は自分、もう1人はまだ見ぬ強敵。
青年は鎖に繋がれた壁の中にあっても、最強を諦めてはいなかった。
彼の名前はカールゴッチ。猪木の師匠となる男である。
カールゴッチは幼少期からレスリングを習い幼い頃から頭角を表す。
捕虜収容所から保釈された後、48年にはグラゴローマン、フリースタイルレスリングの二種目においてロンドンオリンピックに出場。
しかし、ロンドンオリンピックから2年後、突如としてアマレスリングを引退し、プロレスの世界へと飛び込む。
本人曰く『人並みに食っていかなければならない、こればっかりはどうしようもなかった』
プロレスの世界に飛び込むと、アマレス界の大物だったカールゴッチはたったの数試合でこれまでアマレスで受け取ってきた金額とは比べものにならないほどの金を手に入れることになったが、51年にカールゴッチは突然イギリスに渡る。
イギリスは『ビリーライレージム』またの名は『蛇の穴』。イギリスが誇る最高峰の実戦向きレスリングを教えるジムだ。そこで修行を詰む為だった。求道者であるカールゴッチ。金銭よりも強さへの欲求が勝ったのは当然のことだったのかもしれない。
蛇の穴で教えていたレスリングは一言で言えば『なんでもあり』の現代における総合格闘技的なエッセンスがふんだんに盛り込まれたレスリング。
ジムを訪れた初日、オリンピック選手にまで上り詰めたカールゴッチのレスリングは通用せず、いとも簡単にギブアップを何度も取られた。人生最大の屈辱の瞬間だったが、同時にレスリングの奥深さを思い知らされた瞬間でもあった。カールゴッチはここで8年間修行することになる。
修行の後、世界を転戦しながら1961年には日本プロレスのリングに上がっている。
第3回ワールドタッグリーグ戦に参戦したのであった。
そこで存命中の力道山と試合をしているのだが、結果は引き分け。試合後、負けず嫌いの力道山もカールゴッチの強さは認めざるを得ず、『あいつは、本当に強ええ…』とぼやいたと言われている。
そして、そんな強さにリングの下から憧れていたのがアントニオ猪木である。
2人は1968年に再開する。
日本プロレスがカールゴッチのテクニックを見込んで、日本プロレスのコーチとして道場に招聘したのであった。
当時のトップレスラーだった馬場達もゴッチからすれば『磨かれていない部分の多い生徒』に過ぎず色々とアドバイスをするのだが、トップ選手達からは当然煙たがられ、敬遠されることになった。
そんな中で熱心にゴッチの授業を受けていたのがアントニオ猪木だった。
猪木の中では小さなプライドよりも、強くなりたいと言う気持ちが遥かに勝っていたのだった。
そしてそこで習得したのが、生涯を通じて用いることになる猪木の代名詞『オクトパスホールド』通称『卍固め』であった。
1969年、ドリーファンク戦
2017年、作家 福留崇広氏が猪木本人に『モハメドアリ戦を除く生涯のベストバウトは?』と聞いた際、猪木は『1969年のドリーファンク戦』と答えたと言う。
日付は1969年は12月3日の出来事だった。
猪木はNWA王者で当時最強と言われたドリーファンクジュニアと試合をすることになった。
NWAは当時最も権威あると言われていたベルトであり、日本でのタイトルマッチは力道山以来13年ぶり。
しかもこの試合に勝った方は馬場との試合が内定すると言う、猪木からすれば絶対にヘマ出来ない試合であった。
さてさて、このドリーファンクジュニア、最強だなんだと聞くと、とんでもない大男の益荒男をイメージするかもしれないがそうでもない。
身長は180センチと後に現れるスタンハンセンやブロディと比べるとちょっと小柄である。
そして見た目なのだが、若ハゲのぬぼーっとしたどこか掴みどころのない兄ちゃんなのである。
なんか、クラスや会社に1人はいる何考えてるか分からない奴の顔をしている。
この兄ちゃんのどこがそんなすごいんだ!?と思ってYouTubeで試合を見てみた。
試合を見て思ったのは、『なんて不思議なレスラーなんだ』だった。
前述のハンセンやブロディのような迫力はない。しかし、無尽蔵のスタミナで動きを止めずに波状攻撃を仕掛けてくる。
更に相手の技を受ける時は、ぬぼーっとした表情で効いているのかいないのか分からない!!!
でも、べらぼうに上手い選手である事は分かる。なんと言うかいぶし銀と言うか…
ちなみに父親のドリーファンクシニアもレスラー。弟のテリーファンクは漫画『キン肉マン』に出てくるテリーマンのモデルでもある。
残念ながら2人の69年に行われた試合のフル動画は通販やらネットを探しても見つからなかった。
探した中で唯一見つけたのはドリーファンクチャンネルがアップロードしていた動画である。60分の試合を6分に編集した総集編である。
試合を見てまず思うのは、猪木のハツラツとした動きと、ドリーファンクの受けの上手さである。
60分勝負であるにも関わらず、猪木はリングの中を縦横無尽に駆け回り、最後までスタミナ切れを起こさずに戦い切るのは人間離れした体力である。
また、動画の1分57秒あたりでドリーファンクがくるくるくるくるっときりもみ回転しながら取る受け身の美しさったらない。
更に興味深いのはお互いの必殺技である。ドリーの必殺スピニングトーホールドは入りこそ美しいが、するすると猪木に逃げられて何度もかけていく。よく言えば軽やか、悪く言えば乱発。
一方,猪木のコブラツイストはラストにググググッと骨が軋むような気迫である。ここぞっと言う時に出すまさに必殺。
猪木26歳、ドリー28歳。2人とも気力体力が一番充実していた時期だったのだろう。
試合は60分フルタイム引き分けに終わった。
完全決着ではないが、この高度な技の応酬を見れたファンは充分な満足度だった事だろう。
1970年、生涯の弟子との出会い
68年が生涯の師匠との出会いならば、70年は生涯に渡る弟子との出会いである。
この頃、猪木の周りにおかしな青年…ともまだ言えない少年がうろちょろし始めた。
彼はある日突然現れ、まるで付人のように猪木の身の回りの世話をし始めたのである。当然、不思議に思う。こいつは誰だ?
「おい、お前誰だ?」と猪木がある日その少年に尋ねると、少年の代わりに後輩レスラーの北沢が答える。
「こいつは、藤波辰爾って言うんですよ」
この少年こそ、後に猪木の一番弟子としてプロレス史上最高の天才と言われることになる藤波辰爾であった。藤波はマット界で大活躍。後に新日本プロレスの社長に就任することになる。70歳を超えた今も現役としてリングに上がり続ける生きた伝説である。
藤波は大分県は国東群の出身。子供の頃は野山を駆け回るのが大好きで、喧嘩が大嫌いな優しい少年であった。
藤波本人と言うよりも、兄の方がプロレスに熱心だったようで、様々なプロレス団体に藤波の写真を送ってプロレスラーにしようとしていたそうだ。
そんなエピソードも後にアイドル的な人気を獲得し、女性からの圧倒的な支持を得る藤波らしいエピソードだ。そんな風に、プロレスラーになることを夢見ていた藤波少年は運命的な出会いを果たす。
それが同郷のレスラー北沢との出会いである。
北沢は当時日本プロレスの中堅レスラー。彼が山口県に興行に来ているところを藤波は入団を直談判する。
同郷のよしみか、藤波の熱意に根負けしてか、北沢は藤波を巡業にそのまま同行させたのだ。
そして、当時北沢は猪木の付き人。
猪木の鞄持ちを藤波にさせ、さも当たり前のように藤波を猪木の付き人に仕立て上げ、しれっと日本プロレスにねじ込んだのである。
伝説のレスラー藤波のプロレス界入りは、過酷なトライアウトの末…なんて華々しいものではなく、『押しかけ』だったのは面白い事実だ。
元々猪木ファンだった藤波は喜んで猪木の後ろを着いて歩いた。誰に命じられるでもなく、猪木のそばにピタリとくっついて離れない彼を見て猪木は『(妻である倍賞美津子よりも)俺のことを分かってくれている』と言って可愛がった。
さて、藤波が入門しては半年が経った冬、日本プロレスは社員旅行としてハワイに行く。
藤波にとって初の海外旅行。当時は1ドル360円の時代。一般庶民にとって、海外旅行は夢のまた夢の時代であった。まだ17歳だった藤波は当然楽しくて仕方なかった。この日の為にパスポートを作り、背広を新調して先輩達にくっついてハワイへと向かった。
ハワイ旅行はもちろん楽しかった。馬場が所有するハワイのマンションへ行ってちゃんこを作ったこと、みんなでハワイの海を泳いだこと。どれも輝かしい思い出だ。
馬場は泳ぎが上手くあの大きな身体でハワイの海を泳ぐ姿が印象的だったと言う。
実はこの旅行に猪木は帯同していない。
藤波の話によると、猪木は集団行動が嫌いでいつも1人でフラフラどこかへ行ってしまうのだそうだ。だからこの時、猪木がどこに行っていたのかはよく分からないらしい。逆に馬場は常に選手達の中心にいたと言う。
ハワイの空気を胸いっぱいに吸い、青春を謳歌する藤波少年だったが、この時、まさか1年後に師匠アントニオ猪木が生涯最大の苦境に立たされるとは思ってもいなかった。
1971年、日本プロレス追放事件
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ
日本プロレスの天下だった。
連日連夜の超満員。マット界の覇者は誰がどう見ても日本プロレスであった。しかし、栄えれば滅ぶのが世の常である。
振り返れば71年は日本プロレス崩壊第一歩となる歳であった。
※
日本プロレスの役員は羽振りが良いことで知られていた。
曰く『会社の金庫を勝手に開けては札束を鷲掴みにして銀座の夜に消えていく』
曰く『幹部達は仕事もせず馬場と猪木以上の給料をもらっていた』
曰く『放漫経営の結果、莫大な売り上げにも関わらず、金庫は空っぽである』
※
71年の11月。
役員達は新宿のスナックで飲み明かしていた。
翌日のゴルフコンペを前に飲み明かそうと言う腹づもりであった。
わいわいと酒を飲んでいる時、一本の電話が入る。それは、日本プロレスの中堅レスラー上田馬之助からであった。
「大変なことになります…」
すぐさまスナックに呼び出される上田。
「猪木が会社を乗っ取ろうとしています」
役員達は絶句。
「馬場は知っているのか?」
「知っていると思います…」
すぐさまスナックに馬場も呼び出された。
「何か企んでいるらしいな。お前も賛成しているのか?」
「話は知ってますけど、僕はそう言うのはしようと思っていません」
「なんで、俺らに言わないんだ」
「すいません…」
(馬場はこの時、知らないの一点張りだったと言う説もあり)
翌日すぐさま臨時役員会が開かれ猪木が呼び出される。
役員達に囲まれた猪木はムッツリと険しい表情を崩さず、黙り込むばかりであった。
さて、そんな猪木の胸中とは…そして、事件の真相とは…
実は、この『日本プロレスクーデター事件』話す人よって内容がバラバラなのである。
話す人によっては、猪木が乗っ取ろうとした説、馬場が猪木を追い出した説、更には猪木が馬場を追い出そうとしていた説、はたまた全く知られていない第三者が黒幕説などなど、まさに小説『藪の中』の様相を呈している。
そんな中、俺は80歳を超えた今尚リングに上がり続けている日本プロレスの生き残り『グレート子鹿』御大の説を推したい。
子鹿曰く、クーデター事件の1年以上前から猪木は
『 日本プロレスは大の男が20人も25人もいて、あれだけお客さんが入っているのにビル一つ造れない。改革しなきゃいけない。俺たちがやらなきゃ誰がやるんだ!』
と会社の不透明な経営に不信感を抱いていたのである。
そして馬場もやはり同じように経営陣に対する不信感を持っていたようであり、馬場と猪木と言う団体のツートップは何回も話し合いをし、会社改革に向けて話を進めていた。
しかし、話はどんどん乗っ取りなど、過激な方向に進んでいく。
本当に猪木は乗っ取りを企てたのか?
小鹿は「『こんなのどうですか?』と言われ『そんなのやれるのか』と軽い気持ちで乗ったと思う。裏で絵を描いたヤツがいるんですよ。猪木さんにそんなアイデアはない。俺に言ったように、会社のシステムを変えようとしていたけど、乗っ取って自分らがやろうというアレじゃない」
と語る。そして、馬場はと言うと
「猪木さんたちと何回も話していたと思うよ。ただ、最終的に一緒にやろうという気はない。多分ゴチャゴチャしているから、一歩引いて二歩後退して終わったと思う。猪木さんは途中でやめない人。乗った船は最後まで乗るから」
結局のところ、猪木は乗っ取りの旗印として担ぎ出され、自分も知らない内にどんどん話が膨らんでいっていたのではなかろうか?
そして、慎重派の馬場は途中までは賛同していたが、雲行きが怪しくなってくると、すーっと手を引いた。
と言うのが恐らく事の真相であろう。
そして、あまりにも話が大きくなりすぎたが為に怖くなってきた上田が役員達に全て暴露した…
と言うのがことのあらましなのではないか?と俺は推測する。
さて、クーデターが暴露された当初は猪木が役員らに謝罪。役員達もあまり事を大きくしたくなかったようで、猪木の謝罪で全てを手打ちにしようとしていた様子。
馬場はと言うと、クーデターを知りながら報告しなかったことを咎められて選手会会長を辞任。後任にはかつての若手三羽烏の1人『大木金太郎』が就任することになる。事態は一件落着かに見えたが、12月に入るとすぐに予想外の展開を見せる。
大木金太郎が猪木除名の連判状を手に役員の元に現れたのであった。
大木は若手の頃こそ『若手三羽烏』と猪木や馬場と並び称されたが、年を追うごとに2人の人気に立場を追いやられることになっていった。
特に猪木が東京プロレスから日本プロレスへ復帰した際は、ナンバー2の座からすぐさま引きずり下ろされたのである。面白いわけがない。
今がチャンスと猪木追放に動いたのであった。強権をふるい、選手たちから署名を集めると役員に連判状を叩きつけたのである。
除名を伝えられた猪木はこっちからお断りだ!!!と逆に日本プロレスに三行半を叩きつけ日本プロレスから去っていった。
1960年の入団から約10年後のことだった。
この時の猪木の胸の中に渦巻いていたのは「どうして!?」と言う気持ちだったに違いない。
会社を良くしたい一心だった。そして、ライバル視をしながらも兄と慕っていた馬場に対して『同じ目標に向かって動いていたのに裏切られた』失意が胸にこみ上げる。
しかし、馬場もまた『猪木に裏切られた。信用できない』と語っている。それは恐らく『猪木には乗っ取り後、馬場を追放する計画がある』と言う話を聞いたことが原因だろう。
この辺りは話す選手によって随分と内容が異なるので、誰の話が本当なのかいまだによく分かっていない。
猪木と馬場の関係が大きく変わってしまったのはこの頃だろう。
猪木は晩年、馬場との関係をこう語る。
『2人きりの時はよかった。誰かが入ると…』
兄弟のようだった2人は些細なボタンのかけ違いから全く別々の道を歩いていくことになる。
猪木退団後の馬場であるが、大木金太郎に選手会会長の座を奪われ、団体内で発言力が大きく失う。更に変わらぬ経営陣のどんぶり勘定に嫌気がさして日本プロレスを退団。全日本プロレスを設立する。猪木と馬場が去った後の日本プロレスには観客が入る事はなく、閑古鳥が常に鳴いていた。
二名が去った翌年73年に日本プロレスは約20年の歴史に幕を下ろしたのであった。
1972年、猪木の闘魂が最も燃えた年
流石の猪木も追放には落ち込んだ。
つい先日までみんな仲間だったのである。
それがクーデターが露見した瞬間に掌を返された。
さらに言えば実は猪木この頃新婚。
1971年には前述の倍賞美津子と「1億円結婚式」を開き世間の話題を掻っ攫っていた。
しかし、超豪華結婚式のすぐ後に失職。その上、結婚式の費用は日本プロレスが持つことになっていたが、追放されたせいでそれも自腹になってしまった。
仲間に裏切られた&無職&大借金と言うトリプルパンチ。マスコミは『猪木はプロレス界永久追放』と面白おかしく書き立てる。
落ち込む猪木を救ったのが妻倍賞美津子だった。
「馬鹿ねえアンタ。お金もらってから辞めればよかったのに。でも、心配しなさんな。あなたひとりくらい私が食べさせてあげる」
ナイスなカミさんすぎるぜ…倍賞美津子。
倍賞美津子の励ましで、猪木の心に火がついた。まだ魂は戦いを求めている。
燃える闘魂、アントニオ猪木の爆進が始まった!!!!
日本プロレス追放から僅か1ヶ月で新団体『新日本プロレス』設立を表明。今日まで続く新日本プロレス誕生の時であった。
更にその数日後、一番弟子藤波辰爾が猪木の自宅を訪れる。藤波辰爾は猪木と行動を共にすることを選んでいたのである。それは忠義心と言う大仰な気持ちではない。藤波にとって、『猪木と行動を共にするのは当たり前のこと』だったのである。
藤波は日本プロレスからの退団、新日本プロレスへの参戦を迷うことなく選んだ。
藤波もまたナイスな弟子である。
猪木の自宅に足を運んだ藤波は絶句した。
家がないのである。
猪木が倍賞美津子と住んでいた大豪邸が取り壊されていた。
実は猪木、新日本プロレスを作ると決めた瞬間に自宅を取り壊すことを即決。そこに新日本プロレスの道場を建てる。
『レスラーたるもの練習する場所が一番重要』なのである。
その後の猪木の行動力もとにかくすごかった。
日本中を回ってのスポンサー巡りはもちろん、世界中を回っての選手集め、チケットは1人1人手売りで売って回る。妻の倍賞美津子も役者業を休業して新日本旗揚げに尽力した。
そして3月には旗揚げ戦まで漕ぎつけた!!!
クビからたったの3ヶ月。ゼロの状態からここまで作り上げるのは超人としか言いようがない…いや、超人と言うよりかは本当に死に物狂いだったのだろう。66年の東京プロレスの頃には上手く回らなかった歯車が音を立てて回り始めたのであった。
旗揚げ戦は大田区体育館で行われた。
第一試合が終わると、リングの上に豊登が花束を持って現れた。
豊登、66年に猪木と東京プロレスを立ち上げたが、猪木を利用するだけ利用して姿を消した男であった。東京プロレスの一件以来、猪木とは袂を分かっていた。
日本プロレスの社長にまで上り詰めた男だったが、東京プロレスの失敗以降うらぶれた生活をしていた。
そんな折に、猪木から『どうしても来て欲しい』と半ば強引に誘われ、その日登壇したのであった。
リング上で花束を貰い受ける猪木。
かつての兄弟弟子の再会の瞬間。
様々な禍根を洗い流す感動の場面…で終わらないのが猪木であった。
ニヤリと笑う猪木。
「豊さん、今日は試合をやってください」
会場は割れんばかりの大歓声。猪木らしいサプライズだ。
呆気に取られる豊登。
観客の1人が「豊登、出なよ!猪木が困ってんだからさ!」と叫ぶ。
「でも、タイツがない」
豊登が困り顔で言う。当然である、今日は試合ではなく花束贈呈で、それも仕方なく来ただけなのだから。
そう言うと、猪木の腹心の1人で、日本プロレスを辞めて新日本にきたレスラー山本小鉄が「俺のがありますよ!」と嬉しそうに言う。
豊登に断る理由はなくなっていた。急遽、山本と組んで外国人タッグと戦うことになったのである。レスラー豊登復活の時であった。
無論、猪木には知名度のある豊登に参戦して欲しいと言う気持ちがあっただろうが、それ以上にうらぶれた生活を送るかつての兄弟子の姿に我慢が出来なかったのだと言う。
結局、豊登も新日本プロレス所属となり活躍することになる。
俺が猪木の最も好きなところはこの『なんでも許してしまう』器のデカさなのかもしれない。
猪木はその人生で数多くの人間に裏切られる。
豊登も猪木を裏切ったその1人である。
しかし、猪木は裏切られて怒る事はあるが、憎む事はない。後に、自身を密告した上田馬之助も新日本への入団を許している。
また、そんな猪木を知ってか知らずか、後年金に困った日本プロレスの役員も馬場ではなく、猪木を頼って来たのも有名な話である。
弟子達にしてもそうだ。
何度も新日本を離反した長州力も、UWFの一員として猪木と苛烈に対立した前田日明も…全員許している。
だからこそ、晩年になっても猪木の周りには人が絶えなかった。
猪木は言う。『川の流れがいくら枝分かれしても、最後には海に集まる』
※
そして旗揚げ戦のメインはアントニオ猪木VSカールゴッチだった。
師匠カールゴッチもまた猪木の為に日本にやってきたのだった。当時、NWAと言う団体がアメリカのマット界を支配していた。そしてNWAは日本プロレスと太いパイプがある。
つまり、新日本に与すると言うのは、NWAと敵対すると言うことであり、下手をすれば業界から抹殺されかねない状態であった。
それでもゴッチは新日本にやってきたのである。ナイス過ぎる師匠だ。 しかし、だからと言って弟子に華を持たせるほど甘い男ではない。
旗揚げ戦のメインであるにも関わらず、ゴッチは猪木にリバースブリーカーを仕掛けマットに沈めたのであった。
新日本プロレスは完全実力社会。団体のエースであっても簡単に負ける。新日本プロレスらしい船出であった。
この1年は猪木にとって苦難の連続だったが、確かな充実感を感じていただろう。
ボロボロの体育館で試合をする日もあった。観客が100人未満の日もあった。しかし、自分たちのプロレスが確実に届いていると言う熱気を肌で感じていた。
新日本プロレスは早くも大爆発を起こそうとしている。祭りの気配が既に漂っている。そんな72年だった。
1973年、盟友と宿敵
73年、猪木が新幹線に乗っていると、偶然日本プロレスの集団と遭遇した。
彼らの顔は浮かなかった。昨年には猪木と共に馬場も抜けた。大木金太郎がなんとか踏ん張っているが、日本プロレスは風前の灯であった。
浮かない顔の中には坂口征二もいた。
坂口征二。猪木、馬場が去った後に日本プロレスのエースとなった男である。息子には俳優の坂口憲二とDDTプロレスの屋台骨を支えた坂口征夫がいる。
身長2メートル弱と言う巨体。そして柔道でオリンピックに出場と言うスポーツエリートの彼は67年に鳴り物入りで日本プロレスに入団してきた。
馬場、猪木が日本プロレスのツートップならば、坂口は間違いなく第三の男であった。
73年当時、新日本の猪木、全日本の馬場、日本プロレスの坂口と言う三角形でプロレスの人気は三分割されていたのだった。
坂口を見つけた猪木は坂口に近づいて話す。
「俺は苦しいけれど、会場に来る数百人を相手にいい試合をを続けているつもりだ」
考えてみて欲しい、会社を退職した先輩が自分で企業して『大変だけど充実してるよ』と言ってくるのである。こちらは看板は大きいけど旧態依然の企業。しかも、徐々に業績は落ちていっている。
坂口の気持ちが大きく揺らいだのは当然のことだろう。
この遭遇から程なくして坂口は新日本プロレスへ移籍する。猪木と坂口の二枚看板になり新日本はグッと勢いづき、この頃にはテレビ局がついにスポンサーにつきテレビ放映が決まる。
さて、その頃の新日本の急務は外国人レスラー発掘であった。
当時、プロレスの主流は善玉の日本人VS悪役外国人と言う構図である。力道山の時代から続く黄金のセオリーだった。
猪木は外国人レスラーを探すのだが良い選手はなかなか見つからない。それもそのはず、前述した通り海外のレスラーとのパイプはかつては日本プロレス、日本プロレスが潰れてからは全日本プロレスが牛耳っており、大物レスラーのほとんどが全日に流れていった。
ならば、無名レスラーの中から光る原石を見つけなければならない。
そして、猪木は『これぞ逸材!!!』と言う選手を発掘する。
それこそ、狂える虎『タイガー・ジェット・シン』だった。
新日本プロレス最大のビールレスラーといえば、今尚名前が上がる名選手である。
彼は元々はジャイアント馬場も師事したフレッドアトキンスの愛弟子であり、正統派レスリングが得意なベビー(善玉)レスラーだった。
しかし、猪木は彼の中に眠る狂気を見逃さなかった。
シンは新日本に参戦するとヒール(悪役)レスラーに大転換。猪木と血を血で洗う大抗争を繰り広げることになる。
特に象徴的な事件が73年の11月に起こった『新宿伊勢丹前襲撃事件』である。
倍賞美津子と買い物中だった猪木は当時抗争中だったシンが白昼の中、猪木を襲撃。文字通り袋叩きにした後走り去ったのであった。
もちろん、大騒ぎになり現場は騒然となった。
翌日の新聞でも大きく取り上げられ、頭に包帯を巻いた猪木の痛々しい姿が一面を飾った。
告訴はしない、決着はリングで
猪木はそう言い放つ。
もちろん、新日本の人気は大爆発した。
プロレスファンは予定調和を超えた本当の狂気と怒りに夢中になった。
この事件をきっかけにシンは『知る人ぞ知る悪役レスラー』から『世界を代表する悪役』になり、新日本は『新進気鋭のプロレス団体』から『全日本と競合する大プロレス団体』になった。
『猪木VSシン』の対立抗争は新日本プロレス初の『ヒット商品』となったのだ。
そして、猪木を名プロレスラーから闘いの神にした狂乱の3年間が始まる
→後半に続く。