最強VS最強。
男のプライドは新しいステージへと
・時代 1997年
・対戦 髙田延彦VSヒクソン・グレイシー
・ルール 総合格闘技
・勝敗 ヒクソン・グレイシーの勝利
グレイシー一族。
柔道の開祖、嘉納治五郎の弟子、前田光世が世界中で武者修行をしたのちに、ブラジルにて起こした格闘技、それがブラジリアン柔術である。
そのスピリッツを色濃く受け継いだのがグレイシー一族であり、グレイシー柔術なのだ。
彼らは地元ブラジルの地で圧倒的な強さから人気を誇るようになり、
とある敗北もあったものの
1960年にはブラジルで大人気になった番組なんでもありの格闘技番組『リングのヒーローたち』にて、司会、マッチメイクをするようになる。
この番組のルールは『なんでもあり』は後にバーリトゥードルールと言われるようになる。
1993年。グレイシー一族のあまりの強さに目を付けたアメリカメディアはグレイシー一族の男、ホイス・グレイシーを含む、空手、相撲、プロレス、キックボクシングなどの格闘家8人をノールールで金網の中で戦わせるトーナメントを行う。
これが後に世界最大の総合格闘技団体UFCの第一回大会である。
トーナメントはホイスグレイシーが他の追随を許さない力を見せつけて優勝。
優勝後、ホイスはこういう「俺の兄貴は俺の10倍強い」
この兄こそ、グレイシー一族史上最強の男、ヒクソン・グレイシーである。
ヒクソンとはいかほどのものなのか?
それを日本人はすぐに知ることになる。
佐山聡が立ち上げた総合格闘技団体修斗が開催したイベント『VALE TUDO JAPAN OPEN 1994』にヒクソンは出場。ほぼ無傷でトーナメントを優勝した。
なぜ、グレイシーは強かったのか?
ここで、なぜグレイシー一族がここまで強かったのかを説明しよう。
さまざまな説があるが、ここで私はテイクダウン(相手を倒す技術)とグラウンドポジション(寝技の位置)の確立にあった説を推したい。
ノールールとはとどのつまり、相手を倒して、有利なポジションで殴ったり、関節を極めれば勝てるもの。
実戦格闘技のグレイシー柔術は当時、この相手を倒す能力、そして相手を倒したあと、どのように動けば有利な体勢(グラウンドポジション)に移行できるのかが他の格闘技よりも圧倒的に長けていた。
今でこそ、総合格闘家は必ず柔術を習い、グラウンドポジションについて、嫌と言うほど反復練習をするものなのだが、当時はグラウンドポジションと言う言葉すらあやふやだった時代。
相手選手からすれば、訳も分からず倒されて、分からないうちに自分の身体の上に乗られ、ボコボコされているという状態。勝てるわけがないのである。
世界に二人いる最強。
そんなヒクソンのことをよく思わない男がいた。
UWFインターの安生である。
UWFインターは世界最強を標榜したプロレス団体で、そのトップの髙田延彦こそ世界最強であるとうたい、数々の試合を繰り広げて話題を呼んでいた。
UWFインターに関してはこちらに詳しい。
さて、このUWFインターで実力ナンバーワンと言われていたのが安生洋二というレスラーだった。彼はヒクソンの噂を聞きつけて、単身ロサンゼルスのヒクソンの道場へと向かう。
早い話が道場破りである。
安生はここで、ヒクソンに惨敗、ヒクソンは道場破りはただでは帰さないとマウントでパンチを見舞い続け、安生を血祭りにあげた。
ここに、柔術とプロレスの確執が生まれ、髙田とヒクソンの間に因縁が生まれた。
この後、UWFインターは経営難を、新日本プロレスとの対抗戦などで埋め合わせようとするも、96年に解散。
この頃、髙田の元にヒクソン戦の話が舞い込んでくる。
97年10月にヒクソンと戦わないか?二人が戦う為だけのイベントを開催する。
との話だった。
このイベントの名前はPRIDE。後に2000年代に総合格闘技ブームを巻き起こす史上最大のメガイベントになるのだが、この団体は二人の男のプライドを賭けた試合からすべてが始まったのだった。
髙田はヒクソン戦に向けて、UWFインター解散後はプロレス団体に所属することなく、自らの道場を構えて、試合に向けて集中していく。
そして、97年、二人の世界最強が東京ドームでぶつかることになったのだが、
髙田はヒクソンになにもすることが出来ず、1Rで無残にも関節を極められて敗北することになった。
アントニオ猪木がプロレス最強論を唱えて以降、日本中のプロレスファンがその夢を信じていたが、最強髙田延彦の完敗にプロレスファンは夢から覚めてしまったのだった。
最強神話の失墜、髙田を襲ったのは激しいバッシングだった。
曰く『A級戦犯』。
プロレスの父、アントニオ猪木はプロレス神話を守る為、あえて『一番弱いやつが出ていった』と発言。
これにより、プロレス界に長い冬の時代が訪れる。
その代わり、総合格闘技という大きなうねりが日本を待ち受けていた。